三島由紀夫の墓はどこに?多磨霊園の平岡家墓所と遺骨盗難事件の全真相
1970年11月25日、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で衝撃的な自決を遂げた不世出の天才作家・三島由紀夫(本名・平岡公威)。没後50余年を経た現在も、その鮮烈な文学と思想は国境や世代を超えて読者を惹きつけ続けています。希代の文学者が最期に選んだ苛烈な美学とは対照的に、彼が眠る墓所は緑豊かな都立霊園の一角に静かに佇んでいます。
しかし、その墓所は過去に日本中を震撼させた「前代未問の遺骨盗難事件」の現場となった歴史を持ち、墓碑に刻まれた本名や戒名、辞世の句には深いドラマが宿っています。本稿では、三島由紀夫の墓所がある正確な場所やアクセス、知られざる事件の顛末から一般参拝時の心得、遺族の現在までを徹底解説します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:三島由紀夫の墓は東京都府中市の都立多磨霊園にあり、作家名ではなく本名「平岡公威」として平岡家の墓所に眠る。
- 要点2:1971年に発生した骨壺盗難・身代金要求事件の全貌と、現在の厳重な埋葬体制を詳細に検証。
- 要点3:戒名「彰武院文鑑公威居士」や辞世の句の意味、命日「憂国忌」と参拝時に厳守すべきマナーを網羅。
【墓所の場所とアクセス】多磨霊園に静かに佇む「平岡家墓所」の全貌
三島由紀夫の墓はどこにあるのか――。その所在地は、東京都府中市と小金井市にまたがる広大な都立多磨霊園(10区1種13側14番)に位置します。多くの文豪や歴史上の偉人が眠る日本屈指の大規模公園墓地であり、春には桜、秋には紅葉が広がる静寂に包まれた場所です。
霊園内の区画を訪ねると、そこにあるのは「三島由紀夫」と大書されたモニュメントではなく、格式高い「平岡家之墓」と刻まれた和型の墓石です。三島由紀夫という筆名は墓石の正面にはなく、墓誌(法名碑)に本名の「平岡公威」として刻まれています。華々しい文壇のスターであり、行動する知識人として世界に名を轟かせた三島は、死してなお一人の家族の一員として先祖代々の墓所に身を寄せています。
多磨霊園には、三島のほかにも北原白秋、江戸川乱歩、与謝野鉄幹・晶子夫妻、吉川英治など、近代日本文学を代表する著名人の墓が多数点在しています。文学散歩として霊園を巡る愛好家も多く、三島の墓所はその中でもひときわ厳粛な空気を漂わせています。
【1970年11月25日】市ヶ谷駐屯地事件の経緯と三島由紀夫が遺したもの
三島由紀夫の墓所を理解する上で避けて通れないのが、1970年(昭和45年)11月25日に起きた「三島事件(市ヶ谷駐屯地占拠事件)」の経緯です。自ら主宰した民間防衛組織「楯の会」のメンバー4名(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)を伴い、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部に押し入った三島は、益田兼利総監を監禁。バルコニーから自衛隊員に向けて憲法改正と自衛隊の決起を促す檄文を撒き、演説を行いました。
演説後、総監室に戻った三島は割腹自決を遂げ、学生長であった森田必勝が介錯を務めた後に自らも切腹して果てました。戦後日本の精神的空洞化に警鐘を鳴らし、命を賭して美意識と国家観を貫いたこの事件は、日本国内のみならず全世界に激震を走らせました。
事件後、三島には「彰武院文鑑公威居士(しょうぶいんぶんかんこういこじ)」という戒名が授けられました。「武を彰(あきら)かにし、文の鑑(かがみ)となった公威」という意味を持つこの戒名は、文武両道を極限まで突き詰めた三島の苛烈な生涯を象徴しています。一方、共に散った森田必勝の墓は故郷である三重県四日市市の修福寺に建立され、現在も関係者によって手厚く供養されています。
【衝撃の真相】日本中を震撼させた「三島由紀夫遺骨盗難事件」の顛末
三島の死から約1年が経過した1971年(昭和46年)12月、多磨霊園の平岡家墓所で前代未聞の凶悪事件が発生します。世に言う「三島由紀夫遺骨盗難事件」です。
何者かによって平岡家の墓が暴かれ、納骨堂に安置されていた三島の遺骨(遺灰)が骨壺ごと持ち去られました。その後、犯人は遺族や出版社に対して脅迫状を送りつけ、多額の身代金を要求。昭和を代表する大作家の遺骨が奪われるという前代未問の事態に、警視庁は威信をかけて極秘捜査を開始しました。
捜査陣の粘り強い追跡と包囲網により、事件発生から約1か月後の1972年1月、東京都内の霊園付近で骨壺が無事に発見・回収されました。遺骨は奇跡的に無傷のまま平岡家へと返還され、犯人は逮捕。この事件を重く見た平岡家と霊園側は、二度と同様の悲劇が起きぬよう、墓石の基盤をコンクリートで強固に固定し、厳重な防犯措置を施した上で再度納骨を執り行いました。現在、墓所が何事もなかったかのように静寂を保っている背景には、こうした凄惨な歴史と遺族の苦難がありました。
【墓碑銘と辞世の句】刻まれた言葉と魂の軌跡を読み解く
三島由紀夫が市ヶ谷で散る直前に遺した辞世の句は、今も多くの人々の胸を打ちます。
「益荒男(ますらお)が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」
「散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
武士の誇りを胸に抱き、自らの美学の頂点で命を散らす覚悟を詠み込んだこれらの短歌は、三島文学の最終到達点とも評されます。平岡家の墓誌には、戒名とともに生没年月日と本名「平岡公威」が静かに刻印されています。
虚飾を排したその墓碑銘は、作家「三島由紀夫」という巨大な虚構と仮面を脱ぎ捨て、本来の肉体と精神の原点へと回帰した平岡公威という個人の終焉を雄弁に物語っています。
【命日「憂国忌」と参拝マナー】ファン・研究者が知るべき訪問ルール
毎年11月25日の命日には、三島由紀夫と森田必勝の遺徳を偲ぶ追悼集会「憂国忌(ゆうこくき)」が開催され、現在も全国から政財界人、文芸評論家、研究者、一般読者が集い、熱心な祈りを捧げています。
多磨霊園の墓所を個人で訪れるファンや文学愛好家も少なくありませんが、参拝に際しては厳格なマナーと配慮が求められます。
墓参りにおける必須マナー:
- 私有地である意識を持つ:平岡家の墓所はあくまで一家族の私有地であり、神聖な祈りの場です。墓石に触れたり、よじ登るような行為は厳禁です。
- 写真・動画撮影の自粛:墓石や周辺の区画を無断で接写・撮影し、SNS等へ安易に公開することは遺族のプライバシー保護の観点から避けるべきです。
- 供物の持ち帰り:献花やお線香をあげる際は火の元に細心の注意を払い、缶飲料や生ものなどの供物はカラス害や墓石の汚れを防ぐため必ず持ち帰りましょう。
- 静粛な環境の維持:周囲には他の一般家系のご先祖様も多数眠っています。集団で騒ぐ、大声で議論を交わすなどの行為は厳に慎んでください。
【遺族の現在と継承】妻・瑤子氏の没後と三島文学の著作権管理
三島の没後、その莫大な文学的遺産と名誉を守り抜いたのが、妻の平岡瑤子(旧姓・杉山)氏でした。瑤子氏は夫の死後、過熱するマスコミ報道から二人の子供(長女・紀子氏、長男・威一郎氏)を守り育てるとともに、三島作品の著作権管理を厳格に行い、不当な改変や政治的利用を毅然として拒み続けました。
1995年に瑤子氏が逝去した後は、長男の平岡威一郎氏ら遺族が著作権の管理と遺品の保全を継承。山梨県山中湖村にある「三島由紀夫文学館」の設立・運営にも協力し、貴重な直筆原稿や書簡などの資料が研究者や一般に向けて適切に公開されています。
時代が移り変わっても、遺族の手によって守られてきた三島文学の純潔性は揺らぐことなく、多磨霊園の平岡家墓所とともに静かに後世へと受け継がれています。
【三島由紀夫の墓】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:一般人でも多磨霊園にある三島由紀夫のお墓を参拝できますか?
A1:はい、都立多磨霊園は公営の公園墓地であるため、敷地内への立ち入りや墓前での合掌・参拝は原則として自由です。ただし平岡家のプライベートな墓所であるため、マナーを守り静かに参拝することが不可欠です。
Q2:墓石に「三島由紀夫」の文字は見当たらないのですか?
A2:墓石正面には「平岡家之墓」と刻まれており、作家名である「三島由紀夫」の文字はありません。墓石の傍らにある墓誌(法名碑)に、本名の「平岡公威」および戒名「彰武院文鑑公威居士」が刻まれています。
Q3:一緒に自決した森田必勝のお墓も多磨霊園にあるのですか?
A3:いいえ、森田必勝の墓は多磨霊園にはありません。森田の墓所は、彼の生まれ故郷である三重県四日市市川島町にある禅宗寺院「修福寺」に建立されています。
まとめ:時代を超えて読者を惹きつける三島由紀夫の眠る場所
都立多磨霊園の片隅に佇む平岡家の墓所は、戦後日本文学の最高峰として駆け抜け、壮絶な死を遂げた三島由紀夫が、最終的に本名・平岡公威へと還った安らぎの地です。かつての遺骨盗難という受難を乗り越え、いま墓前を満たす静寂は、彼が生前に追い求めた美意識と対極にある絶対的な静止の世界を感じさせます。
三島由紀夫が遺した数々の傑作小説や戯曲、そして痛烈なメッセージは、没後どれほどの年月が経過しても色褪せることがありません。その足跡を辿り墓所を訪れる際は、一人の偉大な作家と彼を支え続けた平岡家の人々に深い敬意を払い、静かに手を合わせることが何よりの供養となるはずです。 (出典: 三島 由紀夫 の 墓(Yahoo!ニュース))